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彭園

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更新日:2021-05-28
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紹介

彭園は九份の豎崎路沿い、九份派出所から上ったところにあります。彭園は元々台陽鉱業有限公司の第二保養所でした。台陽公司の董事長顔欽賢氏は採掘作業者の度重なる負傷や塵肺病に心を痛ませ、光復後の民国37年(1948年)に保養所を採掘作業者用の病院とし、台陽鉱業付属病院と名づけました。そして日本の東北帝国大学医学部を卒業した彭慶火医師が院長に就任しました。


彭医師は新竹の客家人で、日本で卒業後も4年間大学院で研究し、軍医となって戦争で負傷した日本の軍人の治療に当たりました。台湾光復後は、父親の言いつけで台湾に戻り見合い結婚をし、台湾の友人の後押しで、台金付属病院の外科医を務め、後に台陽鉱業付属病院の院長となりました。


彭医師は医術にも弁舌にも長けており、地元でも深い関係を築き、逸話や小話には事欠きません。彭医師の塵肺症の研究は人並み外れており、こうした職業病には治す薬がなく、症状を和らげることしかできないことを実感していました。そのため採掘作業の環境改善に関する助言は大きく功を奏しました。


彭医師は疾病の研究に取り組み続けました。民国64または65年(1975または1976年)には、台陽鉱業付属病院は彭外科となり、民国77年(1988年)に亡くなるまで医療を続けました。没後、家族は彭医師を記念して建物を現在まで保存し、「彭園」と名づけました。


彭園は二階建ての和風瓦屋根の建物です。日本統治時代に修復されて以来、良好な状態で保存されています。彭医師の家族は目立たぬようにと、外部には開放していません。そのためかつての設備、離れや庭、池などを門からうかがいながら、全身全霊を傾けて医は仁術を実践した医学界の先輩に思いをはせるほかありません。


出典:取材訪問、『九份・台陽江両旺の口述歴史専門書』、『九份口述歴史と解説資料編集』

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