昇平戯院
紹介
1927年、戯台は壊されました。その後、周天生さん、呉樹桑さん、賴枝木さん三人が今のところに「昇平座」を建てました。戯院は1937年完成され、200坪を占めました。台湾北部で最も早く成立した戯院で、日本統治時代最も大きい戯院でした。光復後、「昇平戯院」と名を変えました。
戯院の前にある広場は戯台口と呼ばれ、豎崎路を行き来する人が多く、軽便駅も戯台口の角に位置します。縦動線と横動線がここで交わるため交通要路になり、いろいろな屋台が集まる一番にぎやかなところでした。今は交通要路ではないが、にぎやかな観光スポットとして活躍しています。
盛んな時期で、どんな時も昇平戯院での人並みが絶えませんでした。九份で生まれた地元の人によると、戯院に専属する歌仔戯団もありました。それに、無言劇、日本映画、台湾語・中国語映画、洋画などもここで楽しめました。
戯院の宣伝行列もよく思い出されたものです。五人の行列で、一番目の人は銅鑼を叩いて、二・三番目の人は宣伝用のポスターを持って、最後の四・五番目の人はマイクで戯院について宣伝しました。
民国60年代(1971~1980)人口の移出で九份が寂しくなり、民國75年(1986)戯院は閉業しまいました。その後、台風で建物が壊され、業者から建築事務所に渡されました。
数多くの映画やCMはここで撮影しました。2010年、李祖原建築事務所から台北縣政府に渡された後、昇平戯院は民国51年(1962)の姿で建て直され、建築に含まれるもともとの精神を保つのが一番大切なポイントです。屋根は歴史的な意味を持つ建材を使って、安全のため金属建材も使います。昔の外観に最も近づく姿で旅客の前に現れ、2011年7月に完成する予定です。
参考資料:取材訪問、お年寄りの口述、『瑞芳區誌』『九份口述歴史と解説資料編集』『日本統治時代鉱業経営が九份集落に及ぼす影響についての探索』