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新北トラベルネット

気品高く 百回行っても飽きはしない

アンカーポイント
3975
気品高く 百回行っても飽きはしない
タイプ:
青春山海線-海辺の散歩
旅行日:
一日ツアー
適合對象:
公衆、親子

推薦路線

Day

      紹介

      アンカーポイント
      淡水を散策。時を伝える通りのあちらこちらに旧跡を探す。ここでは親子で遊び、目と耳で旅行、美食とショッピングが一度で完結します。漁港で海に親しむこともでき、情人塔からは世界に誇る夕陽の絶景が。淡海ライトレールからは海峡の風景が眺められ、絶対に再訪したくなるでしょう。

      ライトレールの旅は淡水のファーストチョイス。車を運転しなくてもまったりです! 博物館、老街、美食、海景を一度に楽しめ、幾米の絵本を青写真にデザインされた淡海ライトレールに乗り、環境にもやさしい旅!滬尾文化を伝える淡水旧跡群を訪ね、旧跡散歩で淡水の歷史とアートライフを感じましょう。

      旅にちょっとエンタメの要素を加えたいなら、「滬尾芸文レジャー園区」へ。ここにはシネマコンプレックス、ショッピングモールがあり、コヒー片手に一休み。黄昏時には漁人埠頭へ向かい、沈む夕日をカメラと目に焼き付けましょう。

      ご当地グルメの発掘は旅の楽しみ。ライトレール藍海線の限定グルメは小川鍋物、和正農作など。農家と提携し有機食材を使い、シンプルで自然な味、旬の食材を使った食をコンセプトに、地元の特色を生かしたメニューが並びます。老街で定番のB級グルメを味わう他に、冒険心を発揮して新しい味に挑みたい!
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      烏来泰雅部落を源流とする透き通った大羅蘭渓
      烏来区は新北市で最も面積が広く、全体の地勢が最も高い区域です。また、新北唯一の山地原住民区でもあり、領域内の主要族はタイヤル族です。烏来の地名はタイヤル語のUlayから由来し、これは温泉を指しています。烏来観光大橋から北107線を進むと、さながら桃源郷のような德拉楠部落に到着します。部落の命脈でもある大羅蘭渓に沿って散歩し、ズボンの裾をまくって涼しい渓流に入れば、たちまち暑さも消え失せます。烏来老街から車で約半時間の德拉楠部落は、桃園の上巴陵から新北烏来に移動したタイヤル族の最初の居住地です。この小さくて美しい部落は南勢渓の水源保護区内に位置し、現在でもあまり開発されておらず、烏来の最も伝統的なタイヤルの生活方式が保存されています。部落内の至る所にタイヤル族の文化と信仰をテーマとした壁画と彫刻が見られ、特色があります。德拉楠部落の母なる川-大羅蘭渓は、タイヤル族の言葉で「Tranan」といい、南勢渓の支流の一つです。100年前、タイヤル族は上巴陵から峠を越えてこの地で狩りをしていましたが、水源が豊かで土壌が肥沃であることから次々と人々が移り住んできました。日本統治時代に灌漑用水路を開削し、大羅蘭渓の水を引いて部落の耕作に用いました。大羅蘭渓の河谷は青々としており、川幅は時に狭く時に広々としています。クチマガリの群れが清流の中をゆっくりと泳ぎ、美しい風景は人々を驚かせます。大羅蘭渓の両岸には景観歩道が設けられており、北岸は古圳歩道、南岸は近年設置された渓瀧歩道です。古圳歩道はまたの名を「福山馬岸古圳歩道」といい、現在の用水路はすでに本来の灌漑機能を失っているものの、水流は依然としてせせらぎ、歩道の両側は古木が空高くそびえています。緑の木々が日陰を作り、沿道には多種のシダ類が繁茂しています。歩道の途中には休憩場所や蝴蝶公園が設けられ、夏に訪れると蝶の群れが飛ぶ光景を見ることができます。德拉楠景観橋は部落の新しい景観スポットであり、古圳歩道と渓瀧歩道を連結し、環状歩道を形成しています。景観橋は大羅蘭渓を横断する鉄鋼構造アーチ橋であり、アーチ橋の上を歩いて渓谷と幾重の山並みを遠望することができます。渓水と森林が折り重なる爽やかな景色を眺め、渓瀧歩道に沿って部落に戻ると、途中に2カ所の小道が大羅蘭渓に続いています。靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾をまくって涼しい渓流に入れば、たちまち暑さも消え失せます。烏来老街に戻り、北107線の雲仙楽園ケーブルカーの近くから右岸を見ると、山頂から勢いよく滝が流れ落ちています。烏来滝はまたの名を雲仙滝と呼ばれ、高さ80メートルに達する北台湾で最も落差が大きい滝です。日本時代には「雲来の滝」という美名があり、烏来の最も有名な観光スポットの一つです。烏来観光大橋を渡って右に曲がると烏来で最も賑やかな市街-烏来老街に入ります。香り高い原住民料理はハイキングの後の最高のごちそうです。烏来老街は統一様式の店の看板を採用し、街では様々な原住民独自の食材を販売しています。月桃飯、竹筒飯、馬告料理、オオタニワタリ、エシャロット、炭焼きイノシシ肉、温泉卵、アワ餅など思う存分味わってください!
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      祈堂老街の旅
      1889年、台湾で初めての鉄道建設が基隆と台北との間で急ピッチで進められていた頃、工事に従事していた労働者が、今日の基隆七堵一帯の川の中でキラキラ光る砂金を見つけました。人々は金を求めて川を遡り、小金瓜と大金瓜で地表に露出した金脈をついに発見。こうして北台湾のゴールドラッシュが始まり、静かだった金瓜石と九份は黄金の歲月へと突入しました。けれども1987年、台金公司は採掘業務を終了。金瓜石の百年近くにわたる金鉱山の歷史に終止符が打たれたのです。隣りにあって、商業が活発な九份とは異なり、鉱山が閉鎖されたのちの金瓜石は世間から隔絶され、静かな山間の町に戻っています。山中に埋もれた建物、辺りを見守る巨大な関公聖像、路地を行き来する登山客の姿もちらほら。これが金瓜石の今の姿、そしてその麗しさです。「永遠に忘れない」第二次世界大戦時、金瓜石には日本軍の捕虜収容所がおかれていました。現地では「督鼻仔寮(鼻の高い外国人が住むところ)」と呼ばれ、外国人捕虜が収容されていたのです。東南アジアの戦場から連行されたこれら捕虜は英国、米国、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、オランダなどの出身者で、収容中は銅の採掘を担わされました。生活条件はひどく劣悪で、多くの捕虜が大戦の終了を待たず、金瓜石でこの世を去りました。1997年「国際和平終戦記念園区」が開園。過去の戦争を伝えています。「Freedom is not free」は平和が簡単に得られるものではないことを世界中の人々に訴えかけています。祈堂老街(旧市街)は金瓜石のメインストリートです。山並みに沿って作られた旧市街は鉱山労働者の主な生活圈でした。最盛期には八万人もの金採掘者でにぎわい、通りには食事処、雑貨店を始め、銀楼(宝石店)、ビリヤード、酒家(飲み屋/クラブ)などの娯楽施設まで、何でも揃っていたのです!日本統治時代には「金瓜石銀座」とまで呼ばれにぎわいましたが、ゴールドラッシュの終結とともに、金瓜石の人口は2000人を下回るまでに急速に減少しました。にぎわいが去った後の祈堂老街は当時の面影を残しており、レトロな雰囲気が漂っています。改修された「彩虹階段」はSNSで話題をさらい、この鉱山都市に再び注目が集まることになりました。「彩虹階段」を上れば「金瓜石勧済堂」に到着です。「祈堂」とも呼ばれ、創建120年を優に超える金瓜石の信仰の中心地です。主神は盛名轟く関聖帝君(関羽)で、「勧済堂」で最も有名なのは堂の至宝とされる関公聖像です。純銅製で、台湾最大の高さ、35台尺(約10.5メートル)を誇ります。『春秋』を開いた関羽は、山を背に海に臨み、金瓜石の高台にそびえ立っています。金瓜石で最も目をひくランドマークであり、この地の守り神として、金瓜石に暮らす人々を代々見守ってきたのです。標高260メートルの報時山は、日本統治時代にここに設置され、定時に音を発していた警報器にちなんで名付けられました。勧済堂駐車場から登山歩道を登って行くと、わずか10分で展望デッキに到着です。海の方を向くと、陰陽海と北海岸が一望のもと。振り返り山の方を見れば、無耳茶壷山、「六坑斜坡索道」が目の前です。緑の山々と青い大海原に包まれる心地よさは格別です。茶壷山は金瓜石地区を後ろから支えているかのような山です。標高は602メートル。金瓜石側から山頂の岩石を見ると、取っ手のない急須のよう。そのため「無耳茶壷(急須)」というかわいくて覚えやすい名がついたのです。「無耳茶壷山歩道」は金瓜石地区でいちばん人気の登山歩道。勧済堂駐車場から上って行くと、30〜50分で山頂に到着です。ここは瑞芳地区で最も美しい展望スポット。眼前には基隆山、足元には金瓜石の街並みと曲がりくねった道路が広がり、無限の青空と大海に包まれながら、心と身体のパーフェクトな癒しを感じることができます。「アジア第一の貴金属鉱山」はかつて金瓜石に冠せられた威名でした。当時は金、銅の採掘が盛んで集落が形成され、一攫千金を狙う採掘者の夢が詰まった街でした。鉱脈が枯渇した今、街は廃れましたが、山と海が織りなす絶景は変わっていません。登山客と、金瓜石に今も暮らす人々にとって永遠の心の故鄉です。
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