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祈堂老街の旅

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3183
祈堂老街の旅
タイプ:
登山 ハイキング、レトロな老街の旅、秘境コース
旅行日:
一日ツアー
適合對象:
公衆、バックパッカーズ

推薦路線

Day

      紹介

      アンカーポイント
      1889年、台湾で初めての鉄道建設が基隆と台北との間で急ピッチで進められていた頃、工事に従事していた労働者が、今日の基隆七堵一帯の川の中でキラキラ光る砂金を見つけました。人々は金を求めて川を遡り、小金瓜と大金瓜で地表に露出した金脈をついに発見。こうして北台湾のゴールドラッシュが始まり、静かだった金瓜石と九份は黄金の歲月へと突入しました。けれども1987年、台金公司は採掘業務を終了。金瓜石の百年近くにわたる金鉱山の歷史に終止符が打たれたのです。

      隣りにあって、商業が活発な九份とは異なり、鉱山が閉鎖されたのちの金瓜石は世間から隔絶され、静かな山間の町に戻っています。山中に埋もれた建物、辺りを見守る巨大な関公聖像、路地を行き来する登山客の姿もちらほら。これが金瓜石の今の姿、そしてその麗しさです。
      金瓜石

      「永遠に忘れない」第二次世界大戦時、金瓜石には日本軍の捕虜収容所がおかれていました。現地では「督鼻仔寮(鼻の高い外国人が住むところ)」と呼ばれ、外国人捕虜が収容されていたのです。東南アジアの戦場から連行されたこれら捕虜は英国、米国、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、オランダなどの出身者で、収容中は銅の採掘を担わされました。生活条件はひどく劣悪で、多くの捕虜が大戦の終了を待たず、金瓜石でこの世を去りました。1997年「国際和平終戦記念園区」が開園。過去の戦争を伝えています。「Freedom is not free」は平和が簡単に得られるものではないことを世界中の人々に訴えかけています。
      國際終戰和平紀念園區

      祈堂老街(旧市街)は金瓜石のメインストリートです。山並みに沿って作られた旧市街は鉱山労働者の主な生活圈でした。最盛期には八万人もの金採掘者でにぎわい、通りには食事処、雑貨店を始め、銀楼(宝石店)、ビリヤード、酒家(飲み屋/クラブ)などの娯楽施設まで、何でも揃っていたのです!日本統治時代には「金瓜石銀座」とまで呼ばれにぎわいましたが、ゴールドラッシュの終結とともに、金瓜石の人口は2000人を下回るまでに急速に減少しました。にぎわいが去った後の祈堂老街は当時の面影を残しており、レトロな雰囲気が漂っています。改修された「彩虹階段」はSNSで話題をさらい、この鉱山都市に再び注目が集まることになりました。
      祈堂老街
      祈堂老街

      「彩虹階段」を上れば「金瓜石勧済堂」に到着です。「祈堂」とも呼ばれ、創建120年を優に超える金瓜石の信仰の中心地です。主神は盛名轟く関聖帝君(関羽)で、「勧済堂」で最も有名なのは堂の至宝とされる関公聖像です。純銅製で、台湾最大の高さ、35台尺(約10.5メートル)を誇ります。『春秋』を開いた関羽は、山を背に海に臨み、金瓜石の高台にそびえ立っています。金瓜石で最も目をひくランドマークであり、この地の守り神として、金瓜石に暮らす人々を代々見守ってきたのです。
      勸濟堂
      勸濟堂

      標高260メートルの報時山は、日本統治時代にここに設置され、定時に音を発していた警報器にちなんで名付けられました。勧済堂駐車場から登山歩道を登って行くと、わずか10分で展望デッキに到着です。海の方を向くと、陰陽海と北海岸が一望のもと。振り返り山の方を見れば、無耳茶壷山、「六坑斜坡索道」が目の前です。緑の山々と青い大海原に包まれる心地よさは格別です。
      報時山

      茶壷山は金瓜石地区を後ろから支えているかのような山です。標高は602メートル。金瓜石側から山頂の岩石を見ると、取っ手のない急須のよう。そのため「無耳茶壷(急須)」というかわいくて覚えやすい名がついたのです。「無耳茶壷山歩道」は金瓜石地区でいちばん人気の登山歩道。勧済堂駐車場から上って行くと、30〜50分で山頂に到着です。ここは瑞芳地区で最も美しい展望スポット。眼前には基隆山、足元には金瓜石の街並みと曲がりくねった道路が広がり、無限の青空と大海に包まれながら、心と身体のパーフェクトな癒しを感じることができます。
      無耳茶壺山

      「アジア第一の貴金属鉱山」はかつて金瓜石に冠せられた威名でした。当時は金、銅の採掘が盛んで集落が形成され、一攫千金を狙う採掘者の夢が詰まった街でした。鉱脈が枯渇した今、街は廃れましたが、山と海が織りなす絶景は変わっていません。登山客と、金瓜石に今も暮らす人々にとって永遠の心の故鄉です。
      無耳茶壺山

       
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      文化に触れる~「三峡鶯歌」で藍染と陶器作りを楽しむ日帰りの旅
      旅は100年の歴史を持つ「山佳駅」からスタートします。まずは新たに修復された日本式建築の駅舎を訪ね、次に駅周辺の「鉄道地景文化公園」を見学して地元の石炭採掘の歴史についての理解を深めます。続いて向かうのは鶯歌地区で、ここには台湾初の陶磁器をテーマとした「鶯歌瓷博物館」があり、陶磁文化と陶器作りの楽しさを体験することができます。その近くの「鶯歌老街」には精巧な陶磁工芸品が数多くあり、お土産として購入することができます。また、「許新旺陶瓷紀念博物館」と「宏洲磁磚観光工廠」(宏洲タイルファクトリーミュージアム)では、様々な陶器体験やタイルを使ったDIYが体験できます。有名な「三峡老街」では、一列に並んだ特色あふれるバロック様式の看板建築を楽しみながら、地元で大人気のご当地グルメ「三峡金牛角」(台湾風クロワッサン)を味わうことができます。近くにある「三峡染工坊」は、藍染文化について知り、自分だけの藍染品のDIYをするのに最適の場所です。その後さらに、「東洋芸術の殿堂」と称される「清水祖師廟」を訪ね、精巧な彫刻が施された華麗な石刻を観賞します。最後は清水街にある「甘楽文創」を訪ね、地元の若者の夢とエネルギーに満ちたアートスペースを見学し、芸術文化の雰囲気が漂う中で、コーヒーと共に旅の素晴らしさを味わいます。
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      淡水女路-紅楼に響く女性の声
      観光ガイドの案内とともに歩く淡水。淡水媽祖のそばの路地から重建街に出て、画家の林玉珠と作家の王昶雄のロマンチックな物語を探索しましょう。また、100年の歴史ある紅楼では伝承にこだわった女性が自ら製作する糸とじ本、海関碼頭では夕日をあびながら京劇鑑賞が楽しめます。優雅な女性ガイドの案内の下、淡水の文化を体験し、淡水の女性の物語を聞きましょう。淡水媽祖と二つの老街(旧市街)福祐宮のそばの古い路地から出発。主に媽祖を祀る福祐宮は鄞山寺、龍山寺、清水巖と合わせて淡水四大廟と呼ばれています。媽祖は台湾人にとって最もなじみある女神であり、淡水海運の守護神です。媽祖は古代女性の強靭さと慈悲を象徴し、福佑宮には多くの伝説が残されています。淡水媽祖は清仏戦争の滬尾の役や第二次世界大戦で奇跡を起こし、淡水地区の安全を守ったと伝えられています。また同時に福佑宮は淡水の2つの老街-重建街と中正路が交わる地点でもあり、淡水の200年余りの発展を見守ってきました。画家林玉珠の重建街での恋山沿いの階段を上り、淡水最初の商店街である重建街に入ると、賑やかな中正路と比べ今日の重建街は静かでひっそりとしています。しかし、ここは真の淡水老街であり、多くの淡水で知られた政治経済界の有名人が住んでいた場所であり、19世紀中頃から20世紀初旬にかけて淡水で最も繁栄した地区です。重建街から振り返ると、観音山と淡水河の美しい景色が一望でき、画家の林玉珠と作家の王昶雄の恋愛の地でもあります。林玉珠は重建街付近の清水街で生まれました。清水街は「米市街」の旧称で知られ、100年前は淡水の米穀店の主な集積地であり、林家は米穀商を経営していました。林玉珠は淡水女学校在学中に恩師の陳敬輝と出会いました。陳敬輝は馬偕牧師の孫であり、京都絵画専門学校で美術教育を受けました。陳敬輝の熱心な指導と林玉珠の努力の下で、林玉珠は絵画の分野で次第に頭角を現していきました。林玉珠は恩師の励ましを受け、台湾美術界の年度行事である台湾美術展覧会に出展しました。1936年、林玉珠の膠彩画(日本画)《河口の灯台》と陳敬輝先生の《余韻》はともに第十回「台展」に入選しました。17歳の少女の作品が当時の台湾画壇でこのような成功を収めたことは、淡水に多くの輝きをもたらしました。「もし心の中の扉を開いたら綺麗に輝く春の光が見えてくるだろう。春は長くはないけれど、しばらくは胸の辛酸を消してくれる。」医師で作家の王昶雄が作詞した《もし心の中の扉を開いたら》は、台湾人の誰もが口ずさむ台湾語の定番曲です。林玉珠と王昶雄は師の陳敬輝を通じて知り合い、交際期間中の二人は重建街でデートを重ねました。当時の二人の足跡は今日の重建街で人気の映えスポット恋愛巷と呼ばれ、温かくてロマンチックな街並みです。重建街の特徴的なお店、香草街屋や九崁28を訪ねた後は、淡水紅楼へと続く時空のトンネルがあるひっそりとした路地へ。淡水のために紅楼保存に努めた紅楼の洪許俸おばあさん優雅なレンガアーチの回廊こそ老街の坂の上に立つ淡水赤楼です。この赤レンガの洋館は100年の歴史を有する淡水のランドマークで、かつて多くの有名な淡水絵画の中で表現されました。豪商の李貽和が建設し、1899年に落成しました。1913年に当時の淡水街長であった洪以南が買取り、地元の風流な文人が集まる場所として大勢の人がここを訪れました。1960年代に德裕魚酥の女将の洪許俸が購入しました。台湾経済の発展期に、淡水紅楼を改築したいという不動産会社からの問い合わせがありましたが、洪許俸は断じて売却しませんでした。紅楼は淡水人の共通の思い出であるだけでなく、家族の団結と福を象徴する重要な意味を持っているため、彼女は最終的に淡水紅楼を守り通しました。現在、淡水紅楼はレストランとしてだけでなく、淡水コミュニティ大学とのコラボでベジタリアン料理や重建街の香草街屋と協力したイベントを開催し、アクションを起こすことで淡水を守り続けています。100年の風格漂う紅楼で伝統的なお茶を飲む。伝統的な漢服に着替えて国宝級の女性の力を代表する麗杏先生の引率の下で、のんびりと手作業で糸とじ本を作り、しばらくの間はデジタル時代の情報攻撃から離れてみましょう。工業時代前の古い技術に身も心も浸ってみましょう。海の光の日々、王菁の京劇の道淡水河畔の海関埠頭は、台湾の国際貿易の歴史において重要な地位を占めています。1860年に台湾が開港して以来、淡水は最も輝かしい時代を迎えました。観音石や唭哩岸岩で建てられた埠頭は、淡水がかつて国際商港であった証です。その後、河川の堆積に伴って次第に機能を失い、栄華を失っていきました。その後、埠頭労働者の掛け声に代わって詩を朗詠する女性の声が響くようになりました。1975年、海軍芸術工作チームが高雄左營から淡水海関埠頭に移転し、女性の力と夢を乗せた海光国劇隊と海光国劇訓練班も一緒に淡水河畔に転居しました。旧港務倉庫は京劇の演技技術を訓練する空間となりました。王菁先生のような小さな光が苦学して名を馳せ、ついに京劇の舞台で異彩を放つようになりました。海関埠頭の旧倉庫は、魏海敏、王海波、沈海蓉などの有名な京劇俳優を育成しました。俳優たちは舞台の上で躍動し、芸術について語りあい、伝統的な性別の役割に挑戦しました。女性は背後の支持者というだけでなく、舞台上の主役でもあります。当地の文化を礎とする淡水女路は、淡水の女性の物語を掘り起こし、男女平等の未来を描き続けています。
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