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祈堂老街の旅

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2281
祈堂老街の旅
タイプ:
登山 ハイキング、レトロな老街の旅、秘境コース
旅行日:
一日ツアー
適合對象:
公衆、バックパッカーズ

推薦路線

Day

      紹介

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      1889年、台湾で初めての鉄道建設が基隆と台北との間で急ピッチで進められていた頃、工事に従事していた労働者が、今日の基隆七堵一帯の川の中でキラキラ光る砂金を見つけました。人々は金を求めて川を遡り、小金瓜と大金瓜で地表に露出した金脈をついに発見。こうして北台湾のゴールドラッシュが始まり、静かだった金瓜石と九份は黄金の歲月へと突入しました。けれども1987年、台金公司は採掘業務を終了。金瓜石の百年近くにわたる金鉱山の歷史に終止符が打たれたのです。

      隣りにあって、商業が活発な九份とは異なり、鉱山が閉鎖されたのちの金瓜石は世間から隔絶され、静かな山間の町に戻っています。山中に埋もれた建物、辺りを見守る巨大な関公聖像、路地を行き来する登山客の姿もちらほら。これが金瓜石の今の姿、そしてその麗しさです。
      金瓜石

      「永遠に忘れない」第二次世界大戦時、金瓜石には日本軍の捕虜収容所がおかれていました。現地では「督鼻仔寮(鼻の高い外国人が住むところ)」と呼ばれ、外国人捕虜が収容されていたのです。東南アジアの戦場から連行されたこれら捕虜は英国、米国、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、オランダなどの出身者で、収容中は銅の採掘を担わされました。生活条件はひどく劣悪で、多くの捕虜が大戦の終了を待たず、金瓜石でこの世を去りました。1997年「国際和平終戦記念園区」が開園。過去の戦争を伝えています。「Freedom is not free」は平和が簡単に得られるものではないことを世界中の人々に訴えかけています。
      國際終戰和平紀念園區

      祈堂老街(旧市街)は金瓜石のメインストリートです。山並みに沿って作られた旧市街は鉱山労働者の主な生活圈でした。最盛期には八万人もの金採掘者でにぎわい、通りには食事処、雑貨店を始め、銀楼(宝石店)、ビリヤード、酒家(飲み屋/クラブ)などの娯楽施設まで、何でも揃っていたのです!日本統治時代には「金瓜石銀座」とまで呼ばれにぎわいましたが、ゴールドラッシュの終結とともに、金瓜石の人口は2000人を下回るまでに急速に減少しました。にぎわいが去った後の祈堂老街は当時の面影を残しており、レトロな雰囲気が漂っています。改修された「彩虹階段」はSNSで話題をさらい、この鉱山都市に再び注目が集まることになりました。
      祈堂老街
      祈堂老街

      「彩虹階段」を上れば「金瓜石勧済堂」に到着です。「祈堂」とも呼ばれ、創建120年を優に超える金瓜石の信仰の中心地です。主神は盛名轟く関聖帝君(関羽)で、「勧済堂」で最も有名なのは堂の至宝とされる関公聖像です。純銅製で、台湾最大の高さ、35台尺(約10.5メートル)を誇ります。『春秋』を開いた関羽は、山を背に海に臨み、金瓜石の高台にそびえ立っています。金瓜石で最も目をひくランドマークであり、この地の守り神として、金瓜石に暮らす人々を代々見守ってきたのです。
      勸濟堂
      勸濟堂

      標高260メートルの報時山は、日本統治時代にここに設置され、定時に音を発していた警報器にちなんで名付けられました。勧済堂駐車場から登山歩道を登って行くと、わずか10分で展望デッキに到着です。海の方を向くと、陰陽海と北海岸が一望のもと。振り返り山の方を見れば、無耳茶壷山、「六坑斜坡索道」が目の前です。緑の山々と青い大海原に包まれる心地よさは格別です。
      報時山

      茶壷山は金瓜石地区を後ろから支えているかのような山です。標高は602メートル。金瓜石側から山頂の岩石を見ると、取っ手のない急須のよう。そのため「無耳茶壷(急須)」というかわいくて覚えやすい名がついたのです。「無耳茶壷山歩道」は金瓜石地区でいちばん人気の登山歩道。勧済堂駐車場から上って行くと、30〜50分で山頂に到着です。ここは瑞芳地区で最も美しい展望スポット。眼前には基隆山、足元には金瓜石の街並みと曲がりくねった道路が広がり、無限の青空と大海に包まれながら、心と身体のパーフェクトな癒しを感じることができます。
      無耳茶壺山

      「アジア第一の貴金属鉱山」はかつて金瓜石に冠せられた威名でした。当時は金、銅の採掘が盛んで集落が形成され、一攫千金を狙う採掘者の夢が詰まった街でした。鉱脈が枯渇した今、街は廃れましたが、山と海が織りなす絶景は変わっていません。登山客と、金瓜石に今も暮らす人々にとって永遠の心の故鄉です。
      無耳茶壺山

       
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      蒸し暑い夏の避暑に最適な坪渓古道歩き
      蒸し暑い夏の日、地球温暖化の影響で都市部のヒートアイランド現象が深刻化している今、冷房から一歩離れると息苦しいコンクリートジャングルの熱気にぐったり。市街地から山へ避暑に出かけましょう!平林渓と牡丹渓が合流する雙溪河という名を得て、雙溪は字を見るだけでも涼しく感じる地名です。雙溪区内は山地を主とし、翡翠ダム集水区の上流に位置します。雙溪を訪れたら坪渓古道を歩いて、せせらぎの水の音を聞きながら遠くに亀山島を眺められる景観台に行きましょう。壽山宮をお参りしてからホリデーファーマーズマーケットでお宝を探し、最後に雙溪老街を散策しましょう。台北盆地と蘭陽平原の間の山地に位置する雙溪区は昔から両地を往復する交通の要路であり、淡蘭古道中路の主要な経路地です。その中の坪渓古道区間は、北台湾では珍しい緩やかな渓谷であり、家族で一緒に遊ぶのに適しています。遊歩道は全長1.5キロメートル、海抜は約500メートルです。ひんやりとした坪渓に入れば暑さも忘れる空間です。 坪渓古道は全行程すべて緑の木陰があり、まっすぐに並んでいる杉林がまるで緑のトンネルのようです。なだらかで広い歩道の途中には2カ所渓流に入れる場所あります。水流は穏やかで透きとおり、最深部はふくらはぎまで、水中には魚やエビが泳ぎ、夏の水遊びに最適です。古道の終点は新北市と宜蘭県の境で、見晴らしの良い展望台が設置され、遠くに亀山島と太平洋を見渡すことができます!坪渓古道入口へはナビを「烏山62番キャンプ場」に設定してください。産業道路は狭くなっているので運転にはご注意ください。壽山宮は雙溪泰平地区の信仰の中心で、翡翠ダムの上流である北勢渓のそばに位置しています。壽山宮は天上聖母を主祀とし、関聖帝君、福徳正神を配祀しています。毎年旧暦2月18日に泰平地区の年中行事「迎媽祖」が盛大に開催されます。壽山宮牌楼の隣では毎週土日と祝祭日の午前9時から昼の12時まで、泰平ホリデーファーマーズマーケット(壽山宮ホリデーファーマーズマーケット)が開催されています。マーケットの広さは約20余りの露店を収容することができ、主に季節の良質な野菜を販売しています。地元で栽培した原木シイタケ、季節の野菜と瓜類の作物、またデリカ食品エリアでは焼きビーフン、仙草鶏やかき氷などを販売しており、素朴な山のグルメを味わうことができます。雙溪の町の中心は牧丹渓と平林渓が合流して雙溪河になる所に位置しています。清の時代、舟の利と淡蘭古道の人流や物流によって、雙溪は重要な水陸中継センターとして栄えました。しかし鉄道や道路が相次いで開通した後、雙溪の既存の水運機能は淘汰され、町も次第に静かになりました。雙溪渡船の乗り場は長安街の突き当たりに位置し、ここは昔、内陸河川の貨物積み替え場でした。淡蘭古道から来た貨物と乗客は渡し船に乗り、雙溪河に沿って海沿いの舊社(現在の福隆海水浴場一帯)に運ばれ、さらに帆船に乗り換えて各地に運ばれました。帰りは小型船を利用して日用品を積み、河川を逆行して頂雙溪まで遡上し、雙溪のかつての輝きを作り上げました。長安街はかつて雙溪で最も賑やかな街であり、雙溪の信仰の中心である台湾で唯一亡宋の三傑を奉祀する三忠廟もこの街に位置しています。1781年に建てられた三忠廟は、文天祥公の神像を持って福建から台湾に渡ってきた人が雙溪を開墾し、小屋を建てて神像を奉ったことが起源とされています。信者数の増加に伴い、陸秀夫や張世傑の神像を作って文天祥と合祀し、幾度かにわたって増築と改築が行われて今日の規模になりました。雙溪老街には今でも多くの古い建物が残っています。100年の歴史を持つ林益和堂漢方薬店、周家古厝、雙溪教会寺など、雙溪の昔の繁栄を垣間見ることができます。今ではひっそりとしていますが、山の中の小さく静かな町をゆっくりと歩いて路地の写真を撮ったり、風景を楽しんだりするのに適しています。
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